新緑

石川和子の相川四方山話 #3

「織田信長の娘が佐渡に来ていた」

あんたがたどこさ 佐渡さ
佐渡どこさ 相川さ
相川どこさ おけささ

佐渡の金山 信長様の
松君姫様 お供を連れてさ
佐渡さ 相川さ 素敵よ
清音尼様とちょいと名を残す

 ・・・・・・・・・・・・

 これは、私が「あんたがたどこさ」という手鞠歌に佐渡金山の歴史を織り込んで替え歌にしたんだけどさ、その3番目の歌詞に松君姫っていう織田信長の娘のことを書いてみたのよ。

 松君姫様は、7名の腰元と2名の武士のお供を連れて沢根に上がると、沢根から今のトンネルの上の峠を越えて、そのまま金山の上まで行ったのよ。 松君姫様は柄杓町っていうところに棲んでいたのだけど、私はわざわざ松君姫様が棲んでいたという柄杓町まで行って見て来たのよ。 今は山の中だけど、その当時はそこが相川の繁華街だったのよ。

 松君姫様は尼さんで佐渡に来たからね。 清い音の尼って書いて清音尼という名前だけどね。 「清音尼さん祭り」ってず〜っと相川に昭和20年くらいまで続いてたんだわよ。 たしか12月の27か28日くらいで、暮れに迫っているっちゅうて正月に入って信長の清音尼さん祭りをやるんだけどさ。

 その日は、遊郭もお休みにして、遊女はお客をとらなくてよろしい。 そして織田信長の娘の清音尼さんの掛け軸を下げて、ゆっくりご馳走を食べて体を休める日にしてたのよ。

 これも相川にしかない祭りだったんだよねえ・・・

                    6月3日  ぎゃらりー「兎夢遊」にて
テーマ: 歴史大好き! -  ジャンル: 学問・文化・芸術
by さどかけす  at 19:33 |  石川和子の相川四方山話 |  comment (0)  |  trackback (0)  |  page top ↑

JA佐渡の表紙を飾ったぞ!

 みなさん、こんばんは!
今日の瓦版のタイトルを見て、「こいつ、また何かやらかしたな(汗)」と思われた人は居ない・・・と思いますが、逆に「全英オープンに出てホールインワンを決めやがったな!」と思われた人も居ないと思いますけどね。 (註:だいいちJA佐渡はそういう雑誌じゃありませんから、一瞬でもそう思われた人は佐渡病院に入院してください)

 実は、JA佐渡が発行している機関紙の表紙を飾ったのは、じゃ〜ん・・・私の父と母なのであります。

090702tya1.jpg
(JA佐渡7月号!)

 この表紙の写真を撮影に来たのは6月15日で、その日はTENYというテレビ局も取材に来てくれたそうです。 ちなみにTENYの放送は翌日(16日)の午後6時台のゴールデンのちょっと前の放映だったとのことで、新潟の和子おばさんもしっかりチェックしてくれたそうです(笑)

 TENYが放送してJA佐渡が記事にしたとなると、さすがに当瓦版も、「あ、そう それはよかったね」と放っておく訳にはいきませんからね(汗) 急遽編集会議を開いて、「緊急取材!」を決行したのでありました。

 緊急取材といっても、JA佐渡の表紙や中の記事のなんだからをスキャナで読み取って、関係のありそうな箇所をトリミングしただけですけどね(笑) 表紙を捲ると、「今月の表紙」というタイトルで写真の説明が書いてありました。

 それによると、JA佐渡管内では吉井地区で約2ヘクタールで1トンのお茶を生産していて、そのお茶はJA佐渡のお茶加工施設で焙じられ「佐渡産番茶(ほうじ茶)」として、佐渡島内で販売されているとのことでした。 

090702tya2.jpg
(表紙の解説)

 さらに、頁をめくっていくと12ページに「表紙の人 農に生きる」 サブタイトル「健康のために 佐渡のお茶を」という、お茶畑のまん中で父と母が仲良く2ショットの写真付きの記事が載っていました。

090702tya3.jpg
(表紙の人)

「お茶の栽培を始めて24年になる神蔵さんはご夫妻。 今年も6月中旬から新茶のつみとり作業がまりました。 神蔵さんは、お茶の他に水稲100アールとキウイフルーツの栽培もしています」

 ちなみに水稲100アールは私が栽培しているのですけどね。 伊勢屋の若旦那が(勝手に)ジャズピアニストの河野三紀さんに送ったら「とても美味しい!」と喜んでくれて、お返しに秋田の銘酒「新政 厚徳」を送ってもらったという逸話があるのです。 中身はとうの昔に飲んでしまいましたが、箱と瓶は記念にとってあります(笑)

 キウイフルーツは男の隠れ家ONLINEの人気コラムニストの青木さんから三越ブランドの羊羹をいただいたお返しに、送ってあげたのですが「まじ、美味しかった!!」と喜ばれました。 ウソじゃないですよね、青木さん(笑)

「JA佐渡お茶部会の会長も務めている嘉治さん。 今年は村上方面へ視察研修に出かける予定になっています。 佐渡のお茶はほうじ茶で販売されていますが、一般的に煎茶に使う新梢も同時に摘み取ることから、香りが高く甘みが強いのが特徴です。 最後に『健康のために佐渡のお茶を飲んで欲しい』と話してくれました」

 JA佐渡7月号には、佐渡病院の鈴木友康医師のコラムも載っていました。 この、ひと昔前に巨人や西武で地味に活躍していたプロ野球選手みたいな名前の先生は、今年の春に母と父が心臓疾患で入院した時にお世話になった内科の医長をされている先生ですが、その切はたいへんお世話になりました。 この場をお借りして改めて御礼申し上げます(笑)

090702tya4.jpg
(鈴木友康先生も載っていたぞ)

 母は「今月のJA佐渡は、縁のあるもんばっかり載っておるなあ」と喜んでいましたが、父は「退院する時に、あんまり無理なことしてはいけませんよと言われたのに、(病みあがりの)ふたりがお茶を刈っているところを見たら、なんて言うだろうなあ・・・」と、気にしているようでした。

 ついでにカミさんはといえば、翔太にちょっと似ている鈴木先生がタイプらしくて、「や、だ〜 この鈴木先生の顔。 ほんとはもっと可愛いのに〜 きっと緊張してたのね」だってさ。 そりゃあ、若くて翔太に似ていれば、可愛いでございましょうよ。 ・・・お茶でも飲んで、もう寝るわ 
テーマ:  -  ジャンル: ライフ
by さどかけす  at 21:49 |  島の暮らしは面白い |  comment (0)  |  trackback (0)  |  page top ↑

石川和子の相川四方山話 #2

「相川にあった遊郭の話」

 日本で一番最初に遊郭が出来たのが相川の遊郭だったってこと、知ってました? 江戸にあった吉原の遊郭は4年後に出来たんだけど、そのくらい相川は歴史があるのよ。

 つい、このあいだこの裏に新しい遊女の供養塔が出来たの。 そこには「遊女の供養塔」って書いてあるので、なんで今になってそんなものを造るのかって不思議に思ってさ、私はもう昨日は朝からあっちへ電話してこっちへ電話をしてどっこら中にその供養塔のことを調べたのよ。

 このあたりは「水金(みずかね)」って呼ばれる幕府直轄の遊郭があったところで、11軒って決まっていて、それ以上遊郭を増やしちゃいけないってことになっていた。 直轄ということで、女を買う時には幕府から半分補助金が出てたって記録が残っているのよ。 金山で男を集めて働かせるには女を抱かせる。 女を抱かせるには遊郭が要るということだったのかしらね。

 だから「相川で安いのは、女と魚」だって言葉があるくらいだもんね。 明治になってから、明治天皇はそういうことを止めたから、それ以降は遊女を買う時には誰も半分を持ちません。 まるまる個人負担(笑)

 それと相川の遊郭の遊女は源氏名で出ておるけど、小木と二見にも遊郭があったのですが、あそこの遊女には源氏名が付いてなくておはるはおはるでおくまはおくま。 たとえおくまの身内の者が相川の遊郭へ来て「おくまはおらんか」と頼んでも出してはくれません。

 400年もたってから供養塔が出来た。 その供養塔には発起人の名前とかそんなのは書いてなくて、ただ「平成21年5月 水金遊女供養塔」って書いてあるだけなの。

 それが不思議なんだよね。 未だに成仏出来ないこの世とあの世のあいだで苦しんでいる遊女が、相川のある人のところへ出て、その人があまりにそれが可哀想ってんで個人的に供養塔を立てたということなのよ。 その人のところへ毎晩のように遊女が出てくるので、供養塔を立ててあげなければならないと思ったらしいのよ。

 その人は金山にも遊郭にも関係ないのだけど、400年経った今でも浮かばれない遊女の霊がいるのよねえ。 相川には遊郭にまつわる怪談話がたくさんあるけど、小木や二見には無いんです。 「死んだら化けて出てやる」っていう言葉がありますけど、この世を追われても、すんなりあの世へいけない哀れな遊女がたくさん居たのよねえ。

 なぜかというと、あそこの遊郭は船乗り相手だから、海が時化て船が出られないから、小木や二見は遊女がおってもあそこの遊女は絶対に相手をせんきゃないってことはなかったんですよ。

 いくら遊女だからといっても、相手の顔や身なりを見て「そのもん嫌いだ。 あ、いやいや」と思ったら相手をしなくても良かったんだけどね、ところが相川の金山の場合は指名されるとどんなことがあっても否でもおうでも必ず相手をしなければならなかったから、怪談話も多いのよ。

 でもなかにはどうしても相手をしたくないってこともあったようで、その当時はある遊郭でトラブルがあって侍にばっさり伐られた遊女の血の痕がいくら壁を塗っても塗っても浮き出てくるということもあったということよ。 今はその遊郭は取り壊されてねえなっとるけどさ。

 お客を何人とれって言われてタライマワシになったというし、そうやってお客を何人も相手にすると自分の体も疲れるからねえ。 だからといってお客をとらないと摂関部屋に入れられてご飯を食べさせて貰えないっていう、そういう酷い仕打があったということを、別にその人のせいじゃないんだけど、心の優しい人のところへ出てくるのよねえ。

 水金の遊女の誰だか知らんけれども、供養してほしいと頼みに来て聞かされると、自分もそんなのに出て来られると夜もぐっすり寝られないから、供養塔を立てん訳にはいかない気持になったらしいのね。 それも立派な供養塔だからさ、帰りに寄って見て行けばいいさ。

 みんなが死んだしそれで終わり、はいそれまでよ〜じゃない。 そういう恨み辛みを持ったままこの世を追われた遊女の怨念ってのは400年経った今でも、成仏出来ないでそこいら辺を彷徨っているってことなのね。

 相川の遊郭はみんな絹の着物を着ているのよ。 小木と二見は木綿でいいんです。 格が違うのよ。 幕府で半分金を持ってるから、それにはそれに合わせて自分たちも絹の着物を着てちゃんとせんきゃならんかった訳だよ。

 その供養塔には毎日新しい花が添えられてあるわよ。 その供養塔を建てた石屋さんに「あんながつくったって聞いたんだけど、いったい誰に頼まれて、あの供養塔を建てたの?」って訊いたら、その依頼者が「これこれこういう訳で、なにしろその遊女を供養してやらんと、その人が大変らしくて個人で建てたいと話していた」と教えてくれたのよ。

                    6月3日  ぎゃらりー「兎夢遊」にて
テーマ: 歴史大好き! -  ジャンル: 学問・文化・芸術
by さどかけす  at 21:53 |  石川和子の相川四方山話 |  comment (0)  |  trackback (0)  |  page top ↑

石川和子の相川四方山話 #1

相川音頭は『心中くどき』だった

 相川音頭は「どっとわろうて・・・」だから源平合戦に纏わる唄だと思うでしょ。 そうなると、佐渡には源氏も平家も来ないのに、なんで相川音頭に源平合戦が登場するのかって疑問になってくるじゃない。 それで、いろんな人に「それって、どういうこと?」って訊いたのだけど、それを答えてくれる者が相川にはおらせんのよ。

 それでいろいろ調べてみたら、元歌は心中もん・・・ということがわかったのよ。 相川には金が見つかるまでは羽田村っていって20軒くらいしか家が無かったのに、金が見つかったら急に5万10万と人が入って来たの。 それだけの人が入って来るから、風紀も乱れてくるんだわね。

 昔は、親が決めた相手としか結婚しなかったのが、人が増えてくると男と女の出逢いの機会が多くなって、結婚して子供がおったり、妻や夫がいても自由に恋愛をするようなって、そんなにしてものすごく風紀が乱れて来ると、奉行所ではあんまり風紀が乱れたんじゃ示しがつかんちゅうて、誰かがいちいち「誰々が怪しい」って密告すると、それを見せしめにみんな首をはねるようになったのよ。

「今日は、誰と誰が首をはねられる日だ」って、みんなが見に行く訳さ。 そうすると、はねられる者って爺さん婆さんじゃなくて、若い人でしょ。 それを見ていて「可哀想だし・・・」っていうて、捕まえられて首をはねられる二人に教えてあげると、二人は「首をはねられるんだったら、その前に自分たち好きあった者同士で心中した方がいいもん・・・ ということで心中しちゃうのよ。

 心中する場合はみんなお寺さんでするの。 お寺の境内ですれば、すぐに自分たちを供養してくれる・・・ということで。 「この世で一緒になれんけど、あの世で一緒になりましょう」というて、お寺さんで心中したの。

 相川には心中した者のお墓がたくさんあるから、そんならお盆になったらみんなで心中の唄を唄って供養してやらんかというたのが始まりだとされているのよ。 初めのうちは、心中した者のお墓の周りで踊ってたんだけども、数が多くなると毎晩あのお寺このお寺って回って歩けないから、今度は広い場所に祭壇を設けて人中した者を合同で供養するために、『心中くどき』とか『心中音頭』ってのが出来たのよ。 これがあとで相川音頭になるんだけどね。 それが、お盆の相川の行事なのよ。そうやって、その唄の歌い方が京都あたりから来た節まわしなんだけども、『心中くどき』っていうことでね。

 哀れな唄、誰と誰の心中とか、心中の内容に合わせてその文句を相手の人が作って、心中する時にピンク色の肌襦袢で心中したとかさ、衣装なんかもリアルに書いてあるのよ。それでも、あんまり心中を美化するのも如何なもんかということで、奉行所の役人は面白くないからさ。

 奉行所で風紀を乱した者の首をはねたがために心中する者が出て来たんだからさ、それじゃあ印象が良くないからっていうて、そんなら歌詞を勇ましいのに変えたらよかろうというて、奉行所の役人に作らせたのが源平合戦の「どっと哂うて・・・」が出来たのよ。

 心中する時は、先に女が目を閉じて短刀でやるんだよ。 女が「西はどちらか?」というて、日が沈む方角が西だから、そっちの方に向かって「成仏出来ますように・・・」と手を合わせていると、男が女が手を合わせている喉をめがけて短刀でばっと斬りつけて、その短刀で今度は自分の腹を切って、女の上に倒れるというのが心中のスタイル・・・ そのあと「誰と誰が心中しました」ということで、その当時の瓦版に載るわけ。

 そういう時代があったんだけど、今の若い者にそんな話をしたって、「いや〜 馬鹿らしい。 そんな心中をしなくたって、ふたりで何処へでも逃げて行けばいいのに」って言うかもしれないけど、それが出来る時代じゃないもの。 好きだっていうて、会ったりすると誰かが密告して、密告すれば奉行所に連れて行かれて首をはねられるから、そんなら心中した方がいいっていうてお寺の境内で心中するの。

 相川音頭ってのは、「はい、はい、はい・・・」って合いの手がはいるけど、それは「はあ〜 ご無理ごもっともです。 幕府のいうとおりに、奉行所の役人のいうとおりにします」という意味が籠められているのです。 普通、どっかのお祭りの合いの手に「はい、はい」なんてのは無いでしょ? ちなみに両津はねえ、「りゃんと〜 りゃんと〜」だけど、なんであそこの合いの手が「りゃんと〜 りゃんと〜」なのかちゅうと、判る?
 
(私は侍が両手に刀を持って立っているところを想像して「両刀がりゃんとうになったのではないか」と思ったが、そうではなかった)

 両津のことを中国語で「りゃんとう」というのよ。 りょうつ〜 りょうつ〜 じゃ面白くないから「りゃんと〜 りゃんと〜」にしたってことなのよ。 両津らんかん橋がまん中から折れようとで、りゃんと〜りゃんと〜。 相川はどっとわろうてではい、はい・・なのよ(笑)

 ここに来た人に、そういう質問をすると、たいてい『知らんちゃ』というけど、そうじゃなくて不思議に思ったら自分でいろいろ調べてみるってことをすると、その中に面白いことが隠されているってことがわかってくるのよ。

 佐渡に源氏も平家も来ないんだけど、心中もんばっかり唄ってたんじゃ奉行所にとっちゃ心中を美化するようなことはよくないし、奉行所の役人に何でもいいから勇ましい歌詞を作ってくれって、頼んで作らせたのが「どっとわろうて」なのよ。 なんで相川音頭が源平軍談なの?って質問されて、それを答えられる人が相川には居ないんです。 そういうこと。

 ・・・・・・・・・・

相川音頭(源平軍談)

 初 段
【宇治川先陣 佐々木の功名】

嘉肴あれども 食らわずしては (はい、はい、はい)
酸いも甘いも その味知らず (※以下同じ)
武勇ありても 治まる世には
忠も義心も その聞えなし

ここにいにしえ 元暦の頃
旭将軍 木曾義仲は
四方にその名を 照り輝きて
野辺の草木も 靡かぬはなし

されば威勢に 驕りが添いて
日々に悪逆 いや憎しければ
木曾が逆徒を 討ち鎮めよと
綸旨院宣) 蒙りたれば

お受け申して 頼朝公は
時を移さば 悪しかりなんと
蒲の範頼 大手へまわし
九郎義経 搦手よりも

二万五千騎 二手に分かる
時に義経 下知して曰く
佐々木梶原 この両人は
宇治の川越え 先陣せよと

下知を蒙り すわわれ一と
進む心は 咲く花の春
頃は睦月の 早末つかた
四方の山々 長閑けくなりて

川のほとりは 柳の糸の
枝を侵せる 雪代水に
源太景季 先陣をして
末の世までも 名を残さんと

君の賜いし 磨墨という
馬にうち乗り 駆け出しければ
後に続いて 佐々木の四郎
馬におとらぬ 池月んれば

いでや源太に 乗り勝たんとて
扇開いて うち招きつつ
いかに梶原景季殿と
呼べば源太は 誰なるらんと

思うおりしも 佐々木が曰く
馬の腹帯の のび候ぞ
鞍をかえされ 怪我召さるなと
聞いて景季 そはあやうしと

口に弓弦 ひっくわえつつ
馬の腹帯に 諸手をかけて
ずっっと揺りあげ 締めかけるまに
佐々木得たりと うちよろこんで

馬にひと鞭 はっしとあてて
先の源太に 乗り越えつつも
川にのぞみて 深みへ入れば
水の底には 大綱小綱

綱のごとくに 引き張り廻し
馬の足並 あやうく見えし
川の向こうは 逆茂木高く
鎧うたる武者 六千ばかり

川を渡さば 射落とすべしと
鏃揃えて 待ちかけいたり
佐々木もとより 勇士の誉
末の世までも 名も高綱は

宇治の川瀬の 深みに張りし
綱を残らず 切り流しつつ
馬を泳がせ 向こうの岸へ
さっと駆けつけ 大音あげて

宇多の天皇 九代の後の
近江源氏の その嫡流に
われは佐々木の 高綱なりと
蜘蛛手加久縄 また十文字

敵の陣中 人なきごとく
斬って廻りし その勢いに
敵も味方も 目を驚かし
褒めぬ者こそ なかりけれ
 

 二 段 目
【粟津の合戦 巴がはたらき】

かくて宇治川 先陣佐々木
二陣景季 なお続きしは
秩父足利 三浦の一家
われもわれもと 川うち渡り

勇み進んで 戦いければ
防ぐ手だても 新手の勢に
備えくずれて 乱るる中に
楯の六郎 根の井の小弥太

二人ともはや 討死にすれば
これを見るより ちりちりばっと
風に吹き散る 木の葉のごとく
落ちて四方へ 逃げ行く敵を

追うて近江の 粟津が原に
木曾の軍勢 敗北すれば
鬨をあげたる 鎌倉勢に
巴御前は この勝鬨に

敵か味方か おぼつかなしと
駒をひかえて ためろうところ
返せ戻せと 五十騎ばかり
あとを慕うて 追い来る敵

巴すわやと 駒たてなおし
好む薙刀 振り回しつつ
木曾の身内に 巴と呼ばる
女武者ぞと 名乗りもあえず

群れる敵の 多勢が中を
蹴立て踏み立て 駈け散じつつ
とんぼ返しや 飛鳥の翔り
女一人に 斬り立てられて

崩れかかりし 鎌倉勢の
中を進んで 勝武者一騎
声を張り上げ 巴が武術
男勝りと 聞きおよびたり

われは板東 一騎の勇士
秩父重忠 見参せんと
むずと鎧の 草摺りを取り
引けば巴は にっこと笑い

男勝りと 名を立てられて
強み見するは 恥ずかしけれど
板東一なる 勇士と聞けば
われを手柄に 落としてみよと

云うに重忠 心に怒り
おのれ巴を 引き落とさんと
さては馬とも 揉みつぶさんと
声を力に えいやと引けど

巴少しも 身動きせねば
ついに鎧の 草摺り切れて
どっと重忠 しりえに倒る
内田家吉 これ見るよりも

手柄功名 抜け駆けせんと
みんな戦の 習いとあらば
御免候えと 重忠殿と
手綱かいぐり 駈け来る馬は

これや名におう 足疾鬼とて
虎にまさりて 足早かりし
巴御前が 乗りたる馬は
名さえ長閑けき 春風なれや

いずれ劣らぬ 名馬と名馬
空を飛ぶやら 地を走るやら
追いつまくりつ 戦いけるが
内田ひらりと 太刀投げ捨てて

馬を駈けよと 巴をむずと
組んでかかれば あらやさしやと
巴薙刀 小脇に挟み
内田次郎が 乗りたる馬の

鞍の前輪に 押し当てつつも
力任せに 締め付けければ
動くものとて 目の玉ばかり
娑婆のいとまを 今とらすると

首を引き抜き 群がる敵の
中へ礫に 投げ入れければ
さても凄まじ あの勇力は
男勝りと 恐れをなして

逃ぐる中より 一人の勇士
和田の義盛 馬進ませて
手柄功名 相手によると
生うる並木の 手ごろの松を

根よりそのまま 引き抜き持ちて
馬の双脛 なぎ倒しつつ
搦め取らんと 駈け来たるにぞ
巴御前は 馬乗り廻し

敵を蹄に 駈け倒さんと
熊の子渡し 燕の捩り
獅子の洞入り 手綱の秘密
馬の四足も 地に着かばこそ

いずれ劣らぬ 馬上の達者
かかる折しも 敵の方に
旭将軍 木曾義仲を
石田次郎が 討ち取ったりと

木曾の郎党 今井の四郎
馬の上にて 太刀くわえつつ
落ちて自害と 呼ばわる声に
巴たちまち 力を落とし

ひるむところを 得たりと和田は
馬の双足 力にまかせ
横に薙ぐれば たまりもあえず
前に打つ伏し 足折る馬の

上にかなわで 真っ逆さまに
落つる巴に 折り重なりて
縄を打ちかけ 鎌倉殿へ
引いて行くこそ ゆゆしけれ

 三 段 目
【那須与一 弓矢の功名】

蛇は蛙を 呑み食らえども
蛇を害する なめくじりあり
旭将軍 木曾義仲も
ついに蜉蝣の ひと時ならん

滅び給いて 鎌倉殿の
威勢旭の 昇るがごとし
されば源氏の そのいにしえの
仇を報わん 今この時と

平家追悼 綸旨をうけて
蒲の範頼 義経二将
仰せ蒙り 西国がたへ
時を移さず 押し寄せ給う

武蔵相模は 一二の備え
かくて奥州 十万余騎は
大手搦手 二手に分かる
風にたなびく 旗差物は

雲か桜か げに白妙の
中にひらめく 太刀打物は
野辺に乱るる 薄のごとく
ここぞ源平 分け目のいくさ

進め者ども 功名せよと
総の大勝 軍配あれば
ここの分捕り かしこの手柄
多き中にも 那須の与一

末の世までの 誉れといっぱ
四国讃岐の 屋島の浦で
平家がたでは 沖なる舟に
的に扇を 立てられければ

九郎判官 これ御覧じて
いかに味方の 与一は居ぬか
与一与一と 宣いければ
与一御前に 頭を下げて

何の御用と うかがいければ
汝召すこと 余の儀にあらず
あれに立てたる 扇の的を
早く射とれと 下知し給えば

畏まりしと 御受け申し
弓矢とる身の 面目なりと
与一心に 喜びつつも
やがて御前を 立ち退いて

与一その日の 晴れ装束は
肌に綾織 小桜縅
二領重ねて ざっくと着なし
五枚冑の 緒を引き締めて

誉田栗毛という かの駒に
梨地浮絵の 鞍おかせつつ
その身軽気に ゆらりと乗りて 
風も激しく 浪高けれど

的も矢頃に 駒泳がせて 
浪に響ける 大音あげて
われは生国 下野の国
今年生年 十九歳にて

なりは小兵に 生まれを得たる
那須与一が 手並みのほどを
いでや見せんと 云うより早く
家に伝えし 重籐の弓

鷹の白羽の 鏑箭一つ 
取ってつがえて 目をふさぎつつ
南無や八幡 大菩薩  
那須の示現の 大明神も

われに力を 添え給われと
まこと心に 祈念をこめて
眼開けば 浪静まりて 
的も据われば あらうれしやと

こぶし固めて ねらいをきわめ
的の要を はっしと射切る
骨は乱れて ばらばら散れば
平家がたでは 舷叩き

源氏がたでは 箙をならし
敵も味方も みな一同に
褒めぬ者こそ なかりけれ
 
 四 段 目
【嗣信が身替り 熊谷が菩提心】

さても屋島の その戦いは  
源氏平家と 入り乱れつつ
海と陸との 竜虎の挑み  
時に平家の 兵船ひとつ

汀間近く 漕ぎ寄せつつも  
船の舳先に 突っ立ちあがり
これは平家の 大将軍に  
能登の守名は 教経なるが

率爾ながらも 義経公へ  
お目にかからん 験のために
腕に覚えの 中差ひとつ  
受けて見給え いざ参らすと

聞いて義経 はや陣頭に  
駒を駈けすえ あら物々し
能登が弓勢 関東までも  
かくれなければ その矢を受けて

哀れ九郎が 鎧の実を  
試しみんとて 胸指さして
ここが所望と 宣いければ  
すわや源平 両大将の

安否ここぞと 固唾をのんで  
敵も味方も 控えしところ
桜縅の 黒鹿毛の駒  
真一文字に 味方の陣を

さっと乗り分け 矢面に立ち  
われは源氏の 股肱の家臣
佐藤嗣信 教教公の  
望むその矢を われ受けてみん

君と箭坪は 同然なれば  
不肖ながらも はや射給えと
にこと笑うて たち控ゆれば  
能登も智仁の 大将ゆえに

さすが感じて 射給わざるを  
菊王しきりに 進むるゆえに
今はげにもと 思われけるが  
五人張りにて 十五束なる

弓は三五の 月より丸く  
征矢をつがえて 引き絞りつつ
しばしねらいて 声もろともに  
がばと立つ矢に 血煙り立てど

佐藤兵衛も 弓うちつがい  
当の矢返し 放たんものと
四五度しけれど 眼もくらみ  
息も絶え絶え 左手の鐙

踏みも堪えず 急所の傷手  
右手へかっぱと 落ちけるところ
菊王すかさず 汀におりて  
首を取らんと 駈け来るところ

佐藤忠信 射て放つ矢に  
右手の膝皿 いとおしければ
どうと倒るる 菊王丸を  
能登は飛び下り 上帯つかみ

舟へはるかに 投げ入れければ  
間なく舟にて 空しくなれり
されば平家の 一門はみな  
舟に飛び乗り 波間に浮かむ

ここに哀れは 無官の太夫  
歳は二八の 初陣なるが
駒の手綱も まだ若桜  
花に露持つ 見目形をば

美人草とも 稚児桜とも  
たぐい稀なる 御装いや
すわや出船か 乗り遅れじと  
手綱かい繰り 汀に寄れば

舟ははるかに 漕ぎいだしつつ  
ぜひも渚に ためろうところ
馬を飛ばして 源氏の勇士  
扇開いて さし招きつつ

われは熊谷直実なるぞ  
返せ返せと 呼ばわりければ
さすが敵に 声かけられて  
駒の手綱を また引っ返し

波の打物 するりと抜いて  
三打ち四打ちは 打ち合いけるが
馬の上にて むんずと組んで  
もとの渚に 組み落ちけるを

取って押さえて 熊谷次郎  
見れば蕾の まだ若桜
花の御髪を かきあげしより  
猛き武勇の 心も砕け

ついに髻 ふっつと切れて  
思いとまらぬ 世を捨衣
墨に染めなす 身は烏羽玉の  
数をつらぬく 数珠つま繰りて

同じ蓮の 蓮生法師  
菩提信心 新黒谷へ 
ともに仏道成りにける

 五 段 目
【景清が錏引義経の弓流し 稀代の名馬 知盛の碇かつぎ】

かくて源氏の その勢いは  
風にうそぶく 猛虎のごとく
雲を望める 臥竜にひとし  
天魔鬼神も おそれをなして

仰ぎ敬う 大将軍は
藤の裾濃の おん着長に
赤地錦の 垂衣を召し  
さすが美々しく 出で立ち給う

時に平家の 大将軍は  
勢を集めて 語りて曰く
去年播磨の 室山はじめ  
備州水嶋 鵯越えや

数度の合戦に 味方の利なし  
これはひとえに 源氏の九郎
智謀武略の 弓ひきゆえぞ  
どうぞ九郎を 討つべき智略

あらまほしやと 宣い給う  
時に景清 座を進みいで
よしや義経 鬼神とても  
命捨てなば 易かりなんと

能登に最期の 暇を告げて  
陸にあがれば 源氏の勢は
逃すまじとて 喚いてかかる  
それを見るより 悪七兵衛

物々しやと 夕日の影に  
波の打物 ひらめかしつつ
刃向いたる武者 四方へぱっと  
逃ぐる仇を 手取りにせんと

あんの打物 小脇に挟み  
遠き者には 音にも聞けよ
近き者には 仰いでも見よ  
われは平家の 身内において

悪七兵衛 景清なりと 
名乗りかけつつ 追い行く敵の
中に遅れじ 美尾屋四郎  
あわい間近く なりたりければ

走りかかって 手取りにせんと  
敵の冑の 錏をつかみ
足を踏みしめ えいやと引けば  
命限りと 美尾屋も引く

引きつ引かれつ 冑の錏  
切れて兵衛が 手にとどまれば
敵は逃げ延び また立ち返り  
さてもゆゆしき 腕の 強さ

腕の強さと 褒めたちければ 
景清はまた 美尾屋殿の 
頚の骨こそ 強かりけると 

どっと笑うて 立浪風の  
荒き折節 義経公は
いかがしつらん 弓取り落とし  
しかも引潮 矢よりも早く

浪に揺られて はるかに遠き  
弓を敵に 渡さじものと
駒を波間に 打ち入れ給い  
泳ぎ泳がせ 敵前近く

流れ寄る弓 取らんとすれば  
敵は見るより 舟さし寄せて
熊手取りのべ 打ちかかるにぞ  
すでに危うく 見え給いしが

されど熊手を 切り払いつつ  
遂に波間の 弓取り返し
元の汀に あがらせ給う  
時に兼房 御前に出でて

さても拙き 御振舞や  
たとえ秘蔵の 御弓とても
千々の黄金を のべたりとても  
君の命が 千万金に

代えらりょうやと 涙を流し  
申しあぐれば 否とよそれは
弓を惜しむと 思うは愚か  
もしや敵に 弓取られなば

末の世までも 義経こそは  
不覚者ぞと 名を汚さんは
無念至極ぞ よしそれ故に  
討たれ死なんは 運命なりと

語り給えば 兼房はじめ  
諸軍勢みな 鎧の袖を
濡らすばかりに 感嘆しけり  
さても哀れを 世にとどめしは

ここに相国 新中納言  
おん子知章 監物太郎
主従三騎に 打ちなされけり  
さらば冥途の 土産のために

命限りと 戦いければ  
親を討たせて かなわじものと
子息知章 駈けふさがりて  
父を救いて 勇気もついに

哀れはかなき 二八の花の  
盛り給いし 御装いも
ついに討死 さて知盛の  
召され給いし 井上黒は

二十余町の 沖なる舟へ  
泳ぎ渡りて 主君を助け
陸にあがりて 舟影を見て  
四足縮めて 高いななしき

主の別れを 慕いしことは  
古今稀なる 名馬といわん
かかるところへ 敵船二艘  
安芸の小太郎 同じく次郎

能登は何処ぞ 教経いぬか  
勝負決して 冑を脱げと
呼べば 能登殿  あらやさしやと  
二騎を射てに 戦いけるを

よそに見なして 知盛公は  
もはや味方の 運尽きぬれば
とても勝つべき 戦にあらず  
かくてながらえ 名にかはせんと

大臣殿へも お暇申し  
冑二刎 鎧も二領
取って重ねて ざっくと着なし  
能登に代わりて 面を広げ

安芸の小太郎 左手に挟み  
おのれ冥土の 案内せよと
右手に弟の 次郎を挟み  
なおもその身を 重からせんと
舁ぐ碇は 十八貫目  

海へかっぱと 身を沈めつつ
浮かむたよりも 如渡得船の  
舟も弘誓の 舵取り直し
到り給えや 疾くかの岸へ  

浪も音なく 風静まりて
国も治まり 民安全に 
髪と君との 恵みもひろき
千代の春こそ めでたけれ 

 ・・・・・・・・・・

※ 今夜は、相川の布貼り絵作家である石川和子さんの相川に纏わる話を紹介しました。 これは先日、石川さんのアトリエを訪問した時に聞かせてもらった話でが、だけど相川音頭が心中もんだとは思わなかったし、両津に住んでいるけど、両津甚句の「りゃんとう りゃんとう」っていうお囃子が中国語だとは夢にも思いませんでしたね。 

 石川さんからは、こういう面白い話をたくさん聞いてきたので、これからは「相川四方山話」として紹介していきます。 とりあえずメモをそのまま転記したので、意味が分かりにくいところもあるかもしれませんが、石川さんのお話を直接聞いていると思いながら、お楽しみいただけたらと思います。 

                    6月3日  ぎゃらりー「兎夢遊」にて
テーマ: 歴史大好き! -  ジャンル: 学問・文化・芸術
by さどかけす  at 18:08 |  石川和子の相川四方山話 |  comment (0)  |  trackback (0)  |  page top ↑

乳房山に登った

 午後から乳房山に登った。 沖村から剣先山に登り、船木山を縦走して乳房山へというコースを選択した。 母島だから乳房山という名前を付けたのだろう、と思いながら眺めていたのだが、いよいよ明日帰るということで登ってみることにした。

 乳房というからには丸いお椀のような山が二つならんでいるのかと思えば、下から眺める限りそんな優しいイメージではない。 標高463mと数字的にはあまり迫力のない山だが、なんたって小笠原列島は海底山脈の頂上のほんの一部分しか海の上に出ていないということで、どの山も切り立っていて、とにかく険しいのだ。

840214hahajima00.jpg
(沖村から眺めた乳房山と剣先山)

 ちょうど標高2000m級の山に登って下界に雲海を眺めることがあるが、乳房山からの展望は雲海ではなくて本当の海が棚引いていると思えば分かり易いだろう。

840214hahajima01.jpg

 乳房山の頂上からは360度視界が開けているので、母島とその周辺の小島やちょっと離れた父島も水平線と海の上に浮かんでいる雲との間に垣間見ることが出来た。

840214hahajima08.jpg
(ハハジマメグロ)

840214hahajima09.jpg
(メジロ)

 登って来る途中で、メジロやウグイスなどの小鳥や珍しい南の島でしか見られない珍しい植物ともたくさん出会った。 もちろん、それらの殆どが天然記念物に指定されている。

 岩肌には「ハカラメ」という植物が貼り付くようにして群生していた。 この植物は生命力が強くて葉っぱを千切って挿しておいても、そこから芽が出てくるというのでこんな名前が付けられたのだという。

840214hahajima07.jpg
(岩肌に貼りついている「ハカラメ」という植物)

 「ハカラメ」は島のあちこちに生えていて別に天然記念物でもなさそうだったし、本土でも風呂場に置いておけば育てられるというから、数日前に民宿の近くに生えていたものを観葉植物の好きな親戚の和子おばさんにお土産に2・3枚千切っておいたのだが、ここで見るとやはり南の島の貴重な植物だったのだと思うのだった。

840214hahajima02.jpg

 乳房山へは36枚撮りのフィルムを1本しか持って来なかったので、いいなあと思った景色に何度もカメラを向けたうちの1回か2回しかシャッターを押さなかったのだが、それでも頂上に立つ頃にはあと4・5枚しか残っていないという状態だった。

840214hahajima03.jpg

 3時頃に乳房山の頂上に立ったのだが、西に傾きかけた太陽の光が海面に反射して切り立った山肌と交錯し、あたりに蔓延っているガスに微妙に反応すると私の影を中心に丸い不思議な虹を作った。

840214hahajima10.jpg
(不思議な虹)

 私には生まれて初めて体験する神秘的な現象だったので、貴重なフィルムではあったが、うまく撮れることを期待して慎重に1枚だけシャッターを押した。

840214hahajima04.jpg
(山の中で健気に咲いていたブーゲンビリア)

840214hahajima05.jpg

 乳房山へ登る途中に旧日本軍が掘ったという塹壕や大東亜戦争義勇軍の碑、それから高射砲の残骸や防空壕などがあった。 その中には事故防止と戦争遺物の保存の目的で厳重な柵を施してあり、中に入ることが出来ないようになっていた。 中を覗くと、真っ暗で柵がしてなくてもこの中に入る気にはならないだろうな・・・と思った。

 乳房山から下山する途中でも、いろんな戦争の爪痕を見た。 そのなかで一番ショックだったのは、米軍が本土襲撃の帰りに捨てて行ったという不要爆弾の跡だった。 山肌に直径も深さも10m以上はある穴がざっくり抉り取られたように開いているのだ。 500トン爆弾の跡と立札に記されてあったが、相当大きな爆弾であったのだろうが、平和な時代に育った私には想像も出来なかった。

840214hahajima11.jpg
(不要爆弾の跡)

 その巨大な爆弾の穴の中にマルハチという椰子の木みたいな木が5・6本育っていた。 幹周りは大人がやっと抱えられないくらいあった。 戦争が終わってまもなく芽を出したのがそのまま育ったのだろうか・・・と想像しながら、眺めていた。 しかし、この椰子の木以外の草木は生えていなかった。 赤いラテライトの傷口はまだ開いたままで痛々しく、50年近く経った今でもまだ完全にえてはいないんだなあと思うのだった。

840214hahajima12.jpg

 乳房山から下山すると、まだ明るかったので夕陽の写真を撮っておかなければ・・・と思い、前田商店でフィルムを買い沖港の先端にある鮫が埼へ走って行った。

 これが母島で眺める最後の夕陽だと思うと、少しばかり感傷的な気分になってしまった。 水平線に沈む直前は雲に隠れてしまったが、南の島で眺める夕陽はすごく綺麗だった。 

840214hahajima14.jpg
(母島の夕陽)

 夜はナショナルパナホームの職人さんたちが、明日の船で帰るという私のために送別会を開いてくれた。 ドカベンの香川みたいにぽっちゃり体型の八巻さん(ヤマちゃん)。 眼鏡をかけて一番若い24歳の良治クン。 私の部屋にいつもお菓子を持って挨拶に来たりゲームを誘いに来てくれた新治クン(シンちゃん)。 このあいだ詳しく書いた狩猟が趣味の鈴木さん。 そしてもうひとりヤスさんという、どこから見ても職人さんといった感じの人達だ。

840214hahajima13.jpg
(ナショナルパナホームの職人さんたち)

 彼等と、夜中の12時頃まで騒いでいた。 一升瓶を畳の上に立てて、肩の部分に両足を挟んで鳶(とんび)みたいに乗っかったり、ビール瓶に少し水を入れて口をポン!と叩いて底を割る・・・という特技を披露してくれた。 みんないい人たちなんだなあ・・・と改めて思うのだった。

                                  1984年2月14日 母島にて
テーマ: 旅日記 -  ジャンル: 旅行
by さどかけす  at 21:51 |  小笠原旅日記 |  comment (0)  |  trackback (0)  |  page top ↑
天気予報

-天気予報コム- -FC2-
FC2ニュース
YouTube DL+

developed by 遊ぶブログ
名言・格言ランダムピックアップ
最新記事
最新コメント
カテゴリ
月別アーカイブ
リンク
このブログをリンクに追加する
検索フォーム
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文: